公開日:2025年12月13日
プリオケ第34話は、アリスピアンの「消滅」という事実が明かされ、世界観の根本にある違和感が一気に浮かび上がる回でした。
みなもたち人間側はその重さに動揺する一方で、アリスピアンたちはどこか他人事のように受け止めており、この温度差が物語に独特の不穏さを与えています。
それが「稀な現象ゆえの実感のなさ」なのか、「達観」なのか、「個」という概念の希薄さに起因するのかは、現時点では判断できません。
一方で、みなもは「プリンセスの役目」ではなく、一人の友達として風花姉妹に向き合おうとし、新たな成長を見せました。
この記事では、アリスピアンの死生観、トーマ消滅の再検証、そしてみなもの変化という三つの軸から、第34話の魅力と違和感を読み解いていきます。
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アリスピアンの「都合がよすぎる死生観」問題
第34話を見終えてまず最初に胸に残ったのは、アリスピアンと人間側の生死観の断絶でした。
みなもたちはすみれから聞かされた真実に深く動揺し、自分たちが風花姉妹にしてきたことの重さに涙するほどでした。
それに対してアリスピアンたちは、驚くほど淡々とした反応を見せます。
軽いのではなく、現実味がないという距離感のまま話す彼らの言動は、今回のエピソードの重要な意味を照らしているように感じました。
この章では、アリスピアンたちの「死」をめぐる独特の価値観がどこから来るのか、そしてそれが物語全体にどのような示唆を残しているのかについて、丁寧に掘り下げていきます。
「見たことがない」発言が示す、死への実感の希薄さ
みなもたちが真実を打ち明けられて動揺し、ひとりひとりが胸を痛めていた一方で、ナビーユやグリムさんが見せた反応は驚くほど落ち着いていました。
理屈としてはそうでも、実際に消滅するアリスピアンなんて見たことないんだよ
引用元:『プリンセッション・オーケストラ』第34話
このナビーユの言葉は、打ちひしがれるみなもたちを元気づけるためのものです。
しかしその一方で、自分とは関係のない現象と認識しているような節もあります。
まるで人間が「水の飲みすぎで死んだ人がいる」と聞いた時のように、理屈としては理解しているけれど肌感覚としてはピンとこない――そんな距離感です。
ここから見えてくるのは、アリスピアンにとって「個の死=重大な喪失」という感覚がほとんど存在しない可能性です。
この実感のなさにはいくつか理由が考えられます。
① 「消滅」が極端に稀な現象である
アリスピアンが強すぎるミューチカラに耐えられず消滅する──
これは設定として語られていますが、アリスピアン自身の反応を見る限り、それがどれほど稀な現象なのかは推測できます。
ナビーユやグリムさんのどこか他人事のような態度は、まさに 「知識としては存在するが、自分の生きてきた範囲では起きていない事故」に対する反応そのものです。
寿命のように避けられないサイクルではなく、「滅多に起きない不幸なトラブル」として認識されている可能性が高いのです。
だからこそ、みなもたちが深くショックを受ける一方で、アリスピアンは同じ深刻さを共有しきれない。
そもそも消滅に対する経験値が圧倒的に欠けているからです。
②「消える」という概念が、人間の「死」と一致していない
アリスピアンは触れ合うこともできるし、飲食もするため、物理的な身体を持っています。
しかしグリムさんの説明のとおり、彼らはアリスピアのミューチカラが形をとった存在であり、たとえ形が崩れてもアリスピアに偏在し続けるという認識を持っています。
つまり、アリスピアンにとって「消滅」は、水が水蒸気になるようなもので、人間のいう「死」とは一致しないのです。
そのため、人間が喪失として受け止めるものを、アリスピアンは「形が変わるだけ」と受け止めるのかもしれません。
こうした身体観・存在観の違いが、死生観の大きな溝となって現れています。
③生存への執着が弱く、「今」に価値を置く文化
さらにアリスピアンは、自分の存在を「続かせること」への執着が人間より薄いように描かれています。
グリムさんが語った「消えないように静かに生きて、それは幸せなのか?」「逢えなくなるよりも、今一緒にいられることのほうが大事」という価値観は、まさにアリスピアン的な現在偏重の生命観を示しています。
本編ではこの考え方がみなもたちの救いとして機能し、物語としては綺麗にまとまりました。
その一方で、「丸く収まりすぎている」という感覚もあります。
アリスピアンの死生観があまりに都合よく綺麗に提示されるため、重いテーマのはずなのに、悲しさや痛みがテンプレート的に処理されてしまった印象が残るからです。
異種族間の友情の薄さが生む、テーマの物足りなさ
そう感じてしまう理由のひとつに、人間とアリスピアンの関係性の薄さがあるように思います。
みなもたちの落ち込みや後悔といった心理描写は丁寧だった一方で、そもそも人間とアリスピアンのあいだに深い友情として描かれている関係は多くありません。
現時点で明確な友情と呼べるのは、みなもたちとナビーユ、かえでとドドメさん、風花姉妹とトーマの三組ほどです。
もちろん、グリムさんや図書館司書のカメオさんなど別の交流もありますが、その距離感は「スタッフと常連客」に近く、親しくはあっても「友人」と呼ぶには少し遠い印象があります。
そのため、「消えてしまうかもしれない」という事態に対する、人間側の深刻さとアリスピアン側の実感の薄さという対比が、物語上まだ十分に積み重ねられていないまま提示されてしまう。
価値観のズレそのものは面白いのに、そのズレがどう効いてくるのかが薄く、やや唐突に見えてしまうのです。
ナビーユ、お前見たことあるだろ問題
アリスピアンの死生観を考えるうえで、第34話でもっとも引っかかるのがナビーユの発言です。
すみれの説明を受けて動揺するみなもたちに対し、ナビーユは「本能でなんとなく消滅について察しているが実際に見たことがないし、そういう事態になることはない」という立場を示します。
いやお前バンド・スナッチの消滅見てたやろが!
「見たことはない」と明言するナビーユの態度はどう解釈すればよいのでしょうか?
考えられるのは以下のふたつの可能性です。
① バンド・スナッチは「元アリスピアン」なのでカウント外
バンド・スナッチはジャマオックに近い変異体であり、純粋なアリスピアンの枠から逸脱した存在です。
ナビーユの認識の中では、「アリスピアンではないものが消えた」という分類になっている可能性があります。
つまり、今回みなもたちが直面した「アリスピアンの消滅リスク」とは別の現象として捉えている。
これは理屈として矛盾はありません。
② プリンセスの攻撃による「外因性の消滅」は別カテゴリ扱い
バンド・スナッチの消滅は、自身のミューチカラによる自壊ではなく、プリンセスの攻撃によるものの可能性もあります。
だとしたら、アリスピアンたちが言う「ミューチカラが高まりすぎての消滅」とは別の現象であり、彼の中では「死」の扱いも別枠になっているのかもしれません。
「殺人事件の現場に居合わせたことはあるけど、水の飲みすぎで死んだ人は見たことない」というのと同じような話です。
説明されていない境界線が、違和感につながる
結局のところ、
- キャパシティオーバーによる消滅と攻撃による消滅が同一なのか別物なのか
- アリスピアン自身の認識としてはどう区別されているのか
- トーマのケースがどれほど特異なのか
といった設定が曖昧なままのため、ナビーユの発言が意図したニュアンスで届かず、結果として「お前見たことあるやろが!」というツッコミにつながってしまうのです。
ナビーユが冷淡なわけではなく、脚本もそう描こうとしているわけではないでしょう。
単に、視聴者が状況を理解するための情報がまだ開示され切っていないため、彼の言動に齟齬が生じてしまうのだと思います。たぶん。
アリスピアンは「少女に都合のよい存在」なのか
アリスピアンがミューチカラ、つまり少女の感情エネルギーから生まれる存在だという設定は、プリオケの世界観を象徴するものです。
しかし、その前提が今回の「死」に関する描写に暗い影を落とし始めています。
アリスピアンの価値観は、極端にいえばこうです。
- 女の子が好きなものは全部好き
- 好きなものを我慢して長生きする意味はない
- 消滅したらミューチカラに還るだけだから怖くない
そしてこの価値観は、少女にとって非常に都合がいいのです。
なぜなら、アリスピアンは少女に尽くし続け、少女の感情を最優先し、消滅しても少女たちが悲しむ必要すらない――そんな構造を持っているからです。
ここから浮上する疑問はひとつ。
アリスピアンは、少女のために最初からそうなるように生み出された存在なのでは?
少女たちの願いや喜びを形にするために生まれ、理不尽を訴えず、苦しみを隠し、そして死を恐れない。
もしこれが自然な生態ではなく設計された仕様なのだとしたら、プリオケの世界全体が抱えている倫理的な歪みが見えてきます。
それを象徴するのが、21話でドランが言った言葉です。
21話ドランの揶揄がここで効いてくる
つくづくお前らにとっちゃありがたい存在だなあ。アリスピアンってのは
引用元:『プリンセッション・オーケストラ』第21話
この台詞は21話でドランが発したもので、ナビーユとみなもの「友情」とアリスピアンの悲哀に対する揶揄と推測しましたが、34話を経てそれが現実味を帯びてきました。
- アリスピアンは少女の感情に従属し
- 少女が望む限り尽くし
- 死も悲劇にならないようにできている
それはあまりにも都合がよすぎる構造です。
少女向け作品だから、で片付けられる問題ではなく、作品自体がその「都合の良さ」に自覚的なのでは? と感じざるを得ません。そうであってくれ。
プリオケは、ただ優しいだけの世界ではなく、少女たちの願いがそのまま「世界の形」になってしまった結果に潜む歪みを静かに提示しているのかもしれません。
そしてこの歪みが、後半に向けて「世界のルール」そのものが問われていく伏線である可能性は高いでしょう。
トーマ消滅の再検証| 自壊ではなかった可能性
トーマの消滅は、本来なら非常にセンシティブで重大な事件のはずです。
しかし、物語上では、驚くほど波紋が小さいまま処理されています。
トーマの消滅は、風花姉妹(+白の女王?)しか目撃していないため、アリスピアン社会全体の反応が描かれていないこと自体は不自然ではありません。
しかし、逆に言えば 「風花姉妹以外は誰も異変に気づいていない」 ようにも見えるのです。
トーマ消滅が事件化しない違和感
アリスピアンにも日常生活があり、交友関係があります。
にもかかわらず、
- トーマが突然姿を消したことが問題視されない
- 探されてもいない
- 行方不明扱いすらされていない
この状況はあまりにも静かすぎる。
トーマが消滅したのは本編開始より前の出来事なので、「事件」の記憶が薄れていても不自然ではありません。
それでも「トーマ、どこに行っちゃったんだろうね」という会話のひとつくらいあってもよさそうです。
少女たちに不安を与えないように秘匿していたとしても、「アリスピアンの真実」を知ってしまったみなもたちに対して隠し続ける必要はないでしょう。
「消滅したアリスピアンは記憶ごと消える」仮説
ここで浮かぶのが、記憶処理説です。
- 消滅=存在していた痕跡そのものが世界から薄まる
- ほかのアリスピアンの記憶からも消滅する
- だから、残された少女だけが「異常」を認識できる
もしこの仮説が正しいなら、ナビーユが「見たことないんだよ」と語った矛盾も説明できます。
彼は確かにバンド・スナッチの消滅を見ている。
しかし忘れるようにできているため、本人の記憶から抜け落ちている――
この仕様だとすれば、アリスピアンの死生観が曖昧な理由にも繋がります。
「死」を語れる者がいない。記憶に残らない。だから実感が湧かない。
これは「意図的にそう作られている世界」の可能性が濃厚です。
「白の女王による意図的な消去」説
トーマ消滅がアリスピアの摂理では説明できないとすれば、もうひとつの仮説が浮上します。
白の女王はアリスピアにおける上位存在であり、その意図は未だ不明瞭です。
もし彼女が、風花姉妹を自分の思惑どおり動かす必要があったとすれば、守るべき存在を喪失させることは、これ以上ないほど強烈なトリガーになります。
実際、トーマを失ったことで、
- りりは「自分のせいでトーマが消滅した」という後悔と罪悪感に飲まれ、暴走
- すみれは「正しさ」と「妹を守ること」の天秤が壊れ、倫理観が麻痺
という状態へ追い込まれています。
特にすみれは15話で少女を守ったように、本来は傷つける側には回りたくない人間でした。
だからこそ、トーマの死は彼女にとって心の支柱を折るほどの衝撃だったと考えられます。
女の子の余剰ミューチカラを奪う論理の破綻
さらにもう一点。
風花姉妹は女の子の余剰ミューチカラ(歌のカケラ)を回収していましたが、アリスピアンの消滅原因が「本人のミューチカラ過多」なら、女の子を襲う必要性は本来ないはずです。
小学5年生のりりならまだしも、中学3年生で得意教科は国語全般なすみれなら、この矛盾には気づいてもおかしくありません。
にもかかわらず従ってしまったということは、ここにも白の女王による巧妙な誘導があったと見るべきでしょう。
すなわち、白の女王が「必要な使命」のように装わせることで、風花姉妹は合理的に見える偽りの目的に従わされていた──
という構図が浮かび上がってきます。
みなもの揺らぎと成長|15話・32話との連続性
トーマがあなたたちに残したものは……#プリオケ pic.twitter.com/4jYrhEwHdg
— 「プリンセッション・オーケストラ」公式 (プリオケ) (@priorche_info) December 11, 2025
34話のみなもは、これまで積み重ねてきた揺らぎと成長が最も素直な形で現れた回です。
15話・32話で示された価値観が彼女の中で「答え」として結実し、その結果としての行動の変化が描かれました。
本章では、その連続性をたどりながら、みなもというキャラクターの核心に迫っていきます。
夜の涙に見える「善良な傲慢」が崩れる音
わたしたち、知らない間に
— 「プリンセッション・オーケストラ」公式 (プリオケ) (@priorche_info) December 10, 2025
二人を傷付けてたんだ……#プリオケ pic.twitter.com/aX7eDhcXoS
34話で特に印象的なのは、みなもが夜、布団の中で静かに涙をこぼす場面です。
あおむけに寝て、これまでの風花姉妹の言動を反芻しながら、両手で顔を覆い、涙声で
わたしたち、知らない間にふたりを傷つけてたんだ……
引用元:『プリンセッション・オーケストラ』第34話
と呟く。
このシーンは、33話の感想で扱った 「善良な傲慢」 が崩れる瞬間として機能しています。
みなもは根が善良で、「善意は正しいものだ」という前提を無意識に持ちがちでした。
しかし、風花姉妹の事情を知った今、それが誤りだったと痛烈に思い知る。
この痛みを逃げずに受け止めた点に、みなもの誠実さが宿ります。
理解できない相手を拒絶するのではなく、「分からないなら分かろうとする」方向へ進む――その一歩が描かれていたのです。
そしてこの揺らぎは、次に訪れる大きな選択へ確実につながっていきます。
ヒーローではなく友達として向き合う選択
32話のみなもは、「プリンセスだから」という言葉を白の女王の行動を止める理由づけとして口にしました。
「プリンセス=人々を悲しませない存在」であるという信念から出た言葉で、その正義感ゆえに、結果的にりりを傷つけてしまう場面でもあります。
しかし34話のみなもは、そのプリンセスとしての正しさを前面に出すことをしませんでした。
むしろ変身という象徴的な手段を使わず、友達として、同じ場所に立つひとりの女の子として、すみれと向き合うことを選んだのです。
この違いは、みなもが「役割による正しさ」ではなく、相手の気持ちに寄り添うための勇気を優先できるようになったことを示しています。
プリンセスじゃなくても誰かを守れるように
みなものこの行動には、15話とのつながりも見えます。
15話では、すみれが「変身しなくても守れる」という姿勢を見せ、その背中がみなもに強い印象を残していました。
今回みなもが変身しなかった理由は、ただ感情的に揺れていたからではなく、「プリンセスじゃなくても、守りたい気持ちは届けられる」という、あの時のすみれの姿勢を自分の行動として回収した瞬間でもあるのです。
善良さゆえの傲慢を反省し、役割に逃げず、友達として相手に寄り添う。
この一連の流れが、みなものキャラクターにしっかりと連続性を与えています。
まとめ|「綺麗に収まる」ことへの違和感と、みなもの静かな成長
第34話は、アリスピアンの「消滅」という重いテーマを扱いながら、みなもたちがその恐怖と向き合い、乗り越える回となりました。
アリスピアン側の死生観があまりに達観しているため、物語としては綺麗にまとまりつつも、どこか割り切れなさが残る構造でもあります。
その中で、みなもが変身せず友達として寄り添った姿は、15話から続く成長の線を静かに回収していました。
ナビーユやグリムさんを通して描かれた価値観のズレも、本作の独特な「命」の描き方として浮かび上がります。
総じて、綺麗に着地しつつも議論の余地を残す一話であり、今後の核心にどうつながるのか期待が高まる回でした。
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