第25話は、プリンセスではなく「プリンセスに憧れる一般の少女」ぼたんを主人公に据えた異色回でした。
手作りの衣装で「なんちゃってプリンセス」を演じる彼女が、幼子を守るために本気で立ち向かう──というシンプルながら温かい物語です。
コミカルな演出に包まれつつも、「本物」と「偽物」というモチーフが再び浮かび上がり、シリーズ全体に通底するようなテーマ性をほのめかしていました。
ただし、それが意図的なものなのか、あるいは単に偶然の反復なのかはまだ判然としません。
本作が今後どの方向に進むのか──期待と不安が入り混じる回でした。
ぼたんが見せた「偽物の勇気」|形から入るヒーロー像
時間に正確!御意見無用!!
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第25話の主人公・ぼたんは、プリンセスたちに強い憧れを抱く普通の中学生。
幼いころから変身ヒロインに心をときめかせてきた彼女にとって、本物のプリンセスの存在は「夢が現実になった」ような衝撃でした。
「私もあんなふうになりたい」──その一心で、ぼたんは自作のコスチュームに身を包み、口上や必殺技を考え、練習を重ねます。
それは無鉄砲で子どもっぽい行動にも見えますが、同時に「憧れを実際の行動に移す力」を象徴するものでもありました。
ぼたんはまだ「誰かを守る」という使命感を持っていたわけではなく、「ヒーローになりたい」という純粋な夢を追いかけていただけなのです。
「偽物」が本物になる瞬間
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そんなぼたんの行動を通して描かれたのは、「偽物でも、本気で信じれば本物になりえる」というテーマでした。
幼い少女・あさぎに本物のプリンセスだと勘違いされ、否定できないまま彼女を守ろうと必死に戦うぼたん。
その姿は、力の有無に関係なく「誰かのために立ち上がる」というヒーローの本質を体現していました。
ぼたんにとっては演技でも、あさぎにとってはまぎれもなく「本物のプリンセス」だった。
本物か偽物かを決めるのは、その人の在り方ではなく、受け取る側の心なのだと気づかされる場面です。
偽物の努力は、決して無駄じゃない
ぼたんの姿勢は、「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」という言葉を思い出させます。
つまり、たとえ偽物であっても理想を模倣しようとするその意志こそが人を成長させる。
ぼたんは、憧れたヒーロー像をなぞるうちに、気づかぬうちに本物の勇気を手にしていたのです。
プリンセスではない少女が、プリンセスとしての責任を果たしてしまう──その逆説が、25話の最大の美しさでした。
そして、この偽物が本物を超えるという構図は、かつてながせが抱いた「自分の輝きは偽物かもしれない」という葛藤をパラフレーズしたものでもあります。
本物と偽物の境界は、いつだって曖昧。
だからこそ、誰かを守りたいという真心さえあれば、人は「本物」になれる──そう背中を押してくれるような、温かくも示唆的なエピソードでした。
「本物」と「偽物」|再演される1クール目の問い
ぼたんの物語は、1クール目でながせが抱えた「自分の輝きは本物なのか」という問いを、もう一度、まったく別の立場から描き直したようにも見えます。
ながせは才能に恵まれた「本物」側の人間として、自分の特別さを信じきれずに悩みました。
対してぼたんは、力も才能も持たない「偽物」側に立ちながら、それでも憧れを真似し続けることで、いつのまにか本物のように振る舞っていた存在です。
ふたりの向き合った方向は正反対ですが、どちらも「本物」と「偽物」のあいだに生まれる不安を通して、「自分が何者でありたいのか」という問いに向かっている点で通底しています。
「本物らしさ」は、受け取る側が決める
ぼたんがあさぎを守るために必死で立ち向かう姿――あさぎにとってはそれが「本物のプリンセス」でした。
力や資格がなくても、誰かに勇気や希望を与えられるなら、それはもう本物なのだ──というメッセージは、ながせが「偽物かどうかより、目の前の笑顔を守ることが大事」と気づいた瞬間とも響き合います。
つまり、「本物」か「偽物」かを決めるのは行動する側ではなく、それを見て心を動かされた誰か。
その構図は、まさにプリンセスたちの存在意義そのものを写す鏡でもあります。
「偽物」が物語を前に進める
興味深いのは、物語の節目で「偽物」の側に立つキャラクターほど、プリオケという作品を推進していることです。
ながせが迷いを抜け出せたのも、ぼたんが勇気を出せたのも、自分の不完全さを認めたからこそ。
そしてその在り方は、かつてのバンド・スナッチたちにも通じています。
1・2クール目の物語を先導してきたのは、アリスピアから逸脱した異形である彼らでした。
さらには13話で「女装」をし、くじけそうなサックス少女のために応援歌を歌いセッションをします。
彼女にとっては、バンド・スナッチこそが「プリンセス」だったといえるでしょう。
プリンセスたちが「選ばれし正義」として戦う一方で、こうしたズレを抱えた者たちこそが、世界の見方を変えていく。
ぼたんの物語は、その流れを個人のスケールに引き寄せた再演でもありました。
ジャマオック再出現が示す新たな火種
赤の女王の退場で一区切りついたかに見えた物語は、ここで再び不穏な動きを見せます。
25話では、消滅したはずのジャマオックが再出現し、プリンセスたちの平和の終わりを告げるかのように暴れ出しました。
それは単なる敵の復活ではなく、物語そのものが新たな段階へと進む兆しのように感じられます。
「赤の女王」亡き後に現れた影
第25話の戦闘で再び姿を見せたジャマオック。
プリンセスたちは赤の女王を倒したことで事態は収束したと信じていましたが、現実はそう単純ではありません。
放送終了後に公開された情報によれば、今回ジャマオックを操っていたのは白の女王の配下――花の騎士シンシア。
彼女が戦いで見せた「合体」の手法は、15話でベスが見せた「組体操」の再現にも思えました。
苦肉の策として使われたギャグ的な手段が、より洗練され、強化されて登場する――
そこには、単なる戦術的な再利用ではない何かが感じられます。
「模倣」と「反復」のモチーフ
ジャマオックの合体という描写を再び持ち出したのは偶然ではないでしょう。
15話でベスが行った「組体操」は、格好悪くとも必死に抗うための窮余の一策でした。
それは「勝つ」ためではなく最後の悪あがきとして編み出された、敗者の矜持のような行為だったのです。
しかし、25話でシンシアが見せた同じ合体にはそのような必死さはなく、ベスが抱いていたであろう焦燥や執念は、どこにも見当たりません。
行為の形だけが模倣され、その内側に宿っていた意志は空洞化している。
受け継がれたのは戦術だけで、その内側にあった執念や矜持は抜け落ちていました。
ぼたんが「憧れの模倣」に命を吹き込んだのとは対照的に、ここでの合体は、意志のない模倣=意味を喪失した反復として描かれていました。
この対比が、25話全体の印象を決定づけているように思えます。
「覚えていること」と「理解していること」
プリンセスたちは、「あなたたちのことは忘れない」とバンド・スナッチと約束を交わしました。
実際、彼女たちはベスの「組体操」のことも覚えており、巨大化したジャマオックは「ハリボテ」だと一瞥するだけで看破しました。
けれども、カリストの「覚えておいてくれないか」という言葉に込められた意味や感情までは、決して受け継がれていません。
それを「覚えている」ことと、「理解している」ことの間には、深い隔たりがあります。
プリンセスたちは形としての記憶を保っていても、そこに宿っていた痛みや意志までは継承していない。
――そもそも知らないし、知ろうとも思わなかったので当然なのですが。じゃあ何を約束したんだ、ということになりますが――
そのズレこそが、いまのプリンセスたちの未熟さを静かに映し出しているのではないでしょうか。
ジャマオックの合体がふたたび描かれたのは、過去の行為を「模倣すること」と「理解したうえで継ぐこと」の違いを示すためだった。
そう考えると、25話は単なる再現回ではなく、記憶と継承のあり方を問う静かな実験のようにも見えてきます。
白の女王がもたらす不穏|揺らぐ正義と平等の境界線
24話のCパート、静謐な空間に現れた白の女王は、赤の女王とは対照的な冷たさと威厳をまとっていました。
彼女の存在は、これまでの「プリンセス=正義」「敵=悪」という単純な構図を大きく揺るがす可能性があります。
新たな勢力の登場によって、プリンセスたちの「正義」そのものが試されようとしているのかもしれません。
新勢力「白の女王」と花の騎士
第25話で登場した白の女王の配下・花の騎士。
静謐で近未来的な拠点、そして球体関節を持つ人形のような部下たちは、赤の女王勢とは対照的な冷たさを湛えています。
放送後の情報では、花の騎士を担当するのは、新プリンセス候補と同じ声優。
現時点では花の騎士との関連性は不明ですが、新プリンセスが白の女王に与している可能性が浮上しました。
それは「プリンセス=正義/ジャマオック=悪」というこれまでの構図を揺るがす要素でもあります。
敵が人間の少女だったとしても、プリンセスたちは剣を取れるのか――
この問いは、物語に新たな緊張をもたらしました。
「人間なら話を聞くの?」揺らぐ正義の一線
プリンセスたちはこれまで、赤の女王やバンド・スナッチの真意を聞こうともせず、「悪」として断罪してきました。
それでも彼女たちは「女の子を守るために戦う」という明確な理由を持っていた。
けれど、次の敵がもし人間の少女であれば、彼女たちは悪の断定をためらうかもしれません。
「同じ人間だから」「自分たちと同じ女の子だから」と――
しかし、それこそが正義の平等性を脅かす選別です。
相手の種別や見た目によって態度を変えるのなら、それは「正義」ではなく「情」の問題に過ぎません。
赤の女王にも、バンド・スナッチにも、確かに理由があった。
それでもプリンセスたちは「ダメです悪は許さんです」と戦い抜いたのだから、次に人間の少女が敵として立ちはだかったときも、同じ覚悟を見せてほしい――
ここで求められているのは、優しさではなく「一貫性」です。
誰に対しても同じ線引きを貫けるかどうか。
それが、プリンセスたちが「正義」であり続けるための試金石になるでしょう。
ぼたんの「偽物の勇気」が照らすもの
ぼたんは、力も資格もないただの中学生でした。 それでも彼女は、憧れたヒーロー像をなぞりながら、誰かを守るために動いた。
その行動には、損得も、立場も、見返りもありません。
まさに「偽物のまま、本物の責任を果たした」姿でした。
その瞬間、彼女は自分の「なりたい」を越えて、「誰かのためにある」存在になっていたのです。
彼女の勇気は、プリンセスたちが掲げる「守る」という信念を改めて照らし出しています。
プリンセスたちは今も、その信念を手放してはいません。
ただ、その守るという行為が、どこまで広く、どこまで深く他者に届いているのか──そこに課題があるのです。
敵の姿や出自によって態度を変えない一貫性。
そして、自分たちの正義がどこまで他者に開かれているのかを見つめ直す視野。
白の女王との戦いは、彼女たちにその両方を突きつける試練になるでしょう。
ぼたんの物語は、「プリンセスとはどういう存在か」という問いを、小さな日常のスケールで描き直した回でもありました。
25話は、そんな「プリンセスの正義」をもう一度見つめ直すための静かな鏡だったのかもしれません。
まとめ
第25話「誕生特別編(仮)」は、一見すると息抜きのようでいて、これまで積み重ねられてきたテーマをさりげなく再演した重要な回でした。
ぼたんの「偽物の勇気」は、プリンセスたちの在り方を映す小さな鏡であり、忘れがちな初心──「誰かを守りたい」という衝動──を静かに思い出させてくれます。
その一方で、花の騎士の登場により、再び世界の構造が揺らぎ始めました。
プリンセスたちが、どこまで他者の意志を見つめ、どんな正義を選び取るのか。
3クール目に向けて、物語がどんな形で「本物のプリンセス」を問い直していくのか、期待を込めて見守りたいと思います。
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