プリンセッション・オーケストラ第47話感想|「世界」はどこにあったのか

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プリオケ第47話「世界の合言葉」では、キャロルという「世界を滅ぼす災厄」の存在が明らかになり、物語は一気に終末規模の危機へと広がりました。

地球とアリスピアの世界融合によって街にジャマオックが大量発生し、これまで敵対していたバンド・スナッチとプリンセスが共闘するという展開も描かれます。

まさに物語が「世界の危機」を正面から扱い始めた回だと言えるでしょう。

しかしその中で気になったのが、なっちの口から語られた「きっとそれだけが、世界を救う合言葉だから」という言葉でした。

今回はこの「世界」という言葉の響きについて、第47話を振り返りながら考えていきます。

「世界を救う」という言葉

物語の終盤では、しばしばそれまでの出来事を総括するような言葉が提示されます。

第47話で語られた「世界の合言葉」というフレーズも、そのような決定的な言葉として配置された台詞のひとつでしょう。

歌やダンス、そして自分が楽しいと思えることを続ける――その価値観が、物語全体を貫く理念として提示された場面でもありました。

まずはこの言葉がどのように語られているのかを、あらためて見ていきたいと思います。

「世界を救う合言葉」

詳しく説明している時間はないし、信じられないのは当然だと思います。それでも…ほんのちょっとでも信じてくれるのなら、私と一緒に歌ってください。踊ってください。自分が心の底から好きだと思うことをしてください。その時に感じる楽しさ、嬉しさ、喜び。それが、プリンセスたちの力の源…ミューチカラになるんです。きっとそれだけが、世界を救う合言葉だから

引用元:『プリンセッション・オーケストラ』第47話

この台詞は、なっちがネットを通じて人々に語りかける場面で登場します。

プリンセスたちがこれまで大切にしてきた価値観――応援すること、楽しさを分かち合うこと、ミューチカラを信じること――を象徴する言葉として提示された台詞だと言えるでしょう。

物語のクライマックスに向けた場面として見れば、この言葉は決して不自然なものではありません。

むしろ王道展開であり、これまでの活動の意味を総括するスローガンとして機能しているとも読めます。

しかし同時に、この台詞にはどこか引っかかる響きも残ります。

というのも、「世界」という言葉は、これまでこの物語が扱ってきた問題のスケールと、必ずしも重なっていないように感じられるからです。

そもそも「世界」は語られてきただろうか

ここで浮かぶ素朴な疑問があります。

この物語は、これまで「世界」を語ってきただろうか、という点です。

確かに設定としては、アリスピアという異世界が存在し、そこには「災い」と呼ばれる危機があることも語られてきました。

しかしプリンセスたち自身が、その危機について深く考えたり、世界全体の存続をめぐって語り合ったりする場面は、ほとんどありません。

むしろ物語の中心にあったのは、もっと身近な出来事でした。

誰かの夢を応援すること、仲間との関係、日常の中で生まれる小さな感情。そうした具体的な場面の積み重ねが、プリンセスたちの活動として描かれてきたのです。

だからこそ、ここに来て突然「世界を救う」という言葉が前面に出てくると、物語のスケールが急に大きく跳ね上がったようにも感じられます。

もちろん、終盤に向けて物語のスケールが拡大すること自体は珍しいことではありません。

しかし問題は、これまでの物語の積み重ねと、その言葉がどれほど連続しているのかという点にあります。

この物語は本当に「関係」の物語だったのか

『プリオケ』はしばしば、人と人とのつながりや応援の力を描く作品として語られてきました。

作中でも、誰かを応援することや、人との関わりの中で力を得ることの尊さが提示されています。

しかし実際のエピソードを振り返ってみると、その「関係」がどのように描かれていたのかについて、少し立ち止まって考えたくなる部分もあります。

ゲストキャラクターとの関係

本作では、各エピソードで個性的なゲストキャラクターが登場しました。

彼女たちは歌やダンス、お菓子作りなど、何かに打ち込む少女として紹介され、プリンセスたちはそうした人物たちに出会います。

ただし、その関係の描き方を見ると、必ずしも深い交流が描かれているとは言いがたい場面も多くありました。

実際のやり取りは、「この子を推してるんだー」「へーすごいねこの子ー」

あるいは、「あの子すごいね」「尊敬しちゃうな、応援したいね」

といった形で終わることも少なくありません。

ゲストキャラクターの悩みや葛藤に深く関わるというより、努力や才能を称賛し、外側から応援する立場にとどまっているように見える場面が多いのです。

もちろん例外もあります。

たとえば第16話第17話では、ゲストキャラクターの状況に応じた関わり方が比較的丁寧に描かれていました。

しかし逆に言えば、そうしたエピソードはむしろイレギュラーにも感じられます。

「思い出帳」という設定

本作には「思い出帳」という設定も存在します。

みなもが戦いのあとでゲストキャラクターに会いに行き、サインを貰っているというものです。

設定として見れば、これは確かに関係の継続を示すものです。

一度きりの出会いではなく、その後も交流が続いていることを示唆する仕掛けと言えるでしょう。

しかし実際の作中では、ゲストキャラクターが思い出帳にサインをしている場面は描かれていません。

つまり、その関係は設定として語られてはいるものの、具体的な出来事としてはほとんど提示されていないのです。

この点は、この作品の「関係」の描き方を象徴しているようにも見えます。

関係が存在することにはなっている。

しかし、その関係がどのように築かれ、どのように続いているのかは、作中ではあまり具体的に描かれていません。

「支え合い」という説明

さらに興味深いのは、作中ではこの関係が相互的なものとして語られている点です。

例えば第23話第24話では、プリンセスたちは「自分たちはみんなを守ってきたと思っていたが、実はみんなに守られていた」と悟ります。

そして「赤の女王が語る『進化』とは異なり、人との関わり合いや触れ合いの中でこそ力を得てきたのだ」という気づきが示されます。

つまり物語の理念としては、プリンセスたちは人々と支え合う関係の中にいる存在だと説明されているのです。

しかし、その「支え合い」は、実際の描写としてどれほど示されていたのでしょうか。

「歌のカケラ」という助力

作中には、プリンセスたちが他者から力を受け取っていることを示す仕組みも存在します。

それが、ゲストキャラクターのミューチカラの結晶である「歌のカケラ」です。

プリンセスたちはこのカケラを戦闘で使用し、それを少女たちからの助力として解釈しています。

人との関係の中で得た力が戦いを支えている――という構図が、ここでは示されていると言えるでしょう。

ただし、この仕組みを実際の描写として見ると、奇妙な印象も残ります。

というのも、歌のカケラは基本的にジャマオックを倒した際に入手されるアイテムとして登場するからです。

ゲストキャラクターと関係を築く過程の中で手渡されるわけでもなければ、絆が深まることで託されるものでもありません。

それは「少女たちからの助力」というよりも、むしろ戦闘後のドロップアイテムに近い形で提示されています。

理念と描写のあいだ

こうして見ていくと、この作品には「関係は相互的なものだ」という理念は確かに存在していました。

プリンセスたちは、人との関わりの中で力を得ていると語ります。

そしてその象徴として、「歌のカケラ」という仕組みも用意されています。

しかしその一方で、その関係がどのように築かれ、どのように相互的なものになっていったのかは、作中ではあまり具体的に描かれていません。

関係があることにはなっている。

支えられていることにもなっている。

しかし、その関係や助力がどのように生まれたのかという過程は、ほとんど描かれていないのです。

この理念と描写のあいだのズレこそが、本作の「関係」の描き方を考えるうえでの、大きな特徴なのかもしれません。

「命の輪」という世界観の歪さ

第41話では「命の輪」という概念が語られました。

物語のスケールとしては、ここで初めて「世界」の構造そのものに触れる説明が行われたとも言えます。

しかしその内容をよく見てみると、この世界観には奇妙なところもあります。

ふたつのサイクル

作中で語られる「命の輪」は、大きくふたつの循環から成り立っています。

ひとつは、アリスピアンの命の循環です。

アリスピアンは消滅しても終わりではなく、ミューチカラへと還り、そこから新たな存在として生まれ変わる。

もうひとつは、人間の少女たちとの出会いの循環です。

人間の少女たちは永遠にアリスピアへ来られるわけではありませんが、ある世代の少女たちが去っても、また新しい少女たちがこの世界を訪れる。

このふたつの流れが重なり合うことで、アリスピアンと人間の少女の出会いと別れが繰り返される――それが「命の輪」だと語られます。

こうして説明されると、この概念はどこか美しいもののようにも見える。

しかし、この説明にはひとつ大きな前提があります。

アリスピアンはなぜ消滅するのか

アリスピアンが消滅する理由です。

作中で語られているとおり、アリスピアンは人間の少女たちの強すぎるミューチカラに耐えられなくなることで消滅することがあります。

つまり、少女たちの力がアリスピアンの存在を消耗させる構造になっているのです。

ここで先ほどの「命の輪」の説明を思い出すと、不可解な構図が見えてきます。

本来であれば、人間側の力によって引き起こされている出来事であるはずのアリスピアンの消滅が、世界の自然なサイクルの一部として説明されているからです。

もちろん、物語の中ではそれを悲劇として強調するわけではなく、ミューチカラへ還り、また新たな存在として生まれるという形で語られます。

そうすることで、この出来事は「命の循環」の中に位置づけられていきます。

しかしその構図は、どこか歪ではないでしょうか。

誰がそのサイクルを決めているのか

さらに気になるのは、この状況に対するプリンセスたちの反応です。

アリスピアン側からは、「消滅してもミューチカラに還るだけ」「逢えなくなるよりも、今一緒にいられることのほうが大事」といった言葉も語られます。

そしてプリンセスたちは、その言葉を比較的あっさりと受け入れます。

もちろん、それがアリスピアン自身の意思によるものだとすれば、尊重されるべき選択なのかもしれません。

しかし同時に、この状況には明確な非対称性があります。

アリスピアは人間の少女たちのミューチカラなしに成り立たないのと同時に、アリスピアンが消滅する原因も、そのミューチカラにあるからです。

言い換えれば、生殺与奪を握っているのは人間側です。

その立場にいる側が「それでも構わない」と言われたからといって、その構造をそのまま受け入れてしまうことには、どこか落ち着かないものも感じられます。

美しい言葉と、歪んだ構造

「命の輪」という言葉は、出会いと別れ、そして再生を表す美しい比喩として提示されています。

しかしその内側をよく見てみると、

  • アリスピアンは人間のミューチカラによって消滅する
  • その消滅は世界の循環として説明される
  • その構造を人間側は大きく疑問視しない

という関係が成立しています。

こうして考えると、この世界のサイクルは単なる生命の循環というより、人間の少女とアリスピアンの非対称な関係の上に成り立っている構造にも見えてきます。

第41話で語られた「命の輪」は、一見すると壮大で美しい世界観の説明でした。

しかしその仕組みを少し丁寧に見ていくと、この物語の世界が抱えている別の側面も、同時に浮かび上がってくるように思えます。

「世界」という言葉の空虚さ

なっちの口から語られる「世界を救う合言葉」は、作品がクライマックスに向けて掲げた理念のようにも見えます。

しかしここまでの物語を振り返ると、この「世界」という言葉にはどこか空虚な響きがあるようにも感じられます。

なぜなら、本作はそれまで「世界」という規模の問題をほとんど描いてこなかったからです。

「世界の合言葉は森」という引用

なっちの台詞および、第47話のサブタイトル「世界の合言葉」というフレーズは、アーシュラ・K・ル=グウィンのSF小説『世界の合言葉は森』を思わせるものです。

実際、本作は36話以降、「幼年期の終わり」や「たったひとつの冴えたやりかた」など、古典SFを連想させるフレーズを突然取り入れ始めました。

こうした引用は、単なる言葉遊びでは済まされない重みを持っています。

とりわけ『世界の合言葉は森』は、植民惑星で暮らす原住民と地球人の衝突を描いた作品として知られています。

そこでは、文明を自認する側が正義を掲げながら他者の世界を侵食していく構造そのものが問い直されていました。

このタイトルは、文明と他者の関係、支配と抵抗の構造を象徴する言葉でもあるのです。

アリスピアという「世界」

ここであらためて、作中のアリスピアという世界を見てみましょう。

アリスピアは、人間の少女が生み出す感情エネルギー「ミューチカラ」によって成り立っています。

アリスピアンはそのミューチカラから生まれ、少女たちを迎え入れ、彼女たちの活動を支える存在として描かれています。

しかしこの関係は、必ずしも対等とは言えません。

作中でも示されているように、人間の少女のミューチカラが強すぎる場合、アリスピアンはそれに耐えられず消滅してしまうおそれがあります。

つまりアリスピアンは、人間の少女の存在によって生まれ、場合によってはその力によって消えてしまう存在です。

作品はこの関係を基本的に肯定的なものとして描いていますが、そこには明らかに非対称な構造が存在しています。

植民地主義的な構図

こうした構造を引いた視点から見ると、アリスピアという世界はある種の植民地的な構図にも見えてきます。

人間の少女はアリスピアを訪れ、そこで歌い、踊り、自己実現を果たしていきます。

一方、アリスピアンはその活動を支え、場合によっては消滅のリスクさえ引き受けている。

もちろん作中では、それは「共生」や「絆」として語られます。

しかし実際には、両者が負っているリスクや立場は決して対称ではありません。

だからこそ、本来であればこの関係そのものが物語の中で問い直されてもおかしくなかったはずです。

「世界を救う」という言葉の軽さ

しかし本作では、そうした構造が本格的に検討されることはありません。

アリスピアンとの関係は基本的に肯定的に描かれ、その非対称性が物語の中心的な問題として扱われることもほとんどありませんでした。

その状態のまま、第47話では「世界を救う」という言葉が突然掲げられます。

ここに奇妙な違和感が生まれます。

世界の構造は十分に描かれていない。

アリスピアという場所の意味も整理されていない。

それでもなお、「世界」という言葉だけが大きく語られてしまうのです。

結果として「世界を救う」という言葉は、物語の積み重ねから自然に立ち上がった理念というよりも、クライマックスを盛り上げるためのスローガンのようにも見えてしまいます。

世界を語るために必要だったもの

もし本作が本当に「世界」を語ろうとするのであれば、本来必要だったのは別の問いだったのかもしれません。

それはたとえば、

  • 人間とアリスピアンの関係の再検討
  • ミューチカラという力の倫理的意味
  • 「災い」という世界規模の問題への応答

といった問いです。

しかし物語は、そうした問題を十分に考える前に「世界」という言葉を掲げてしまいました。

だからこそ、第47話で語られる「世界を救う合言葉」は、壮大なスローガンでありながら、どこか地に足のつかない響きを持っているのです。

まとめ|なぜ「世界」は空虚に聞こえてしまったのか

ここまで見てきたように、本作は終盤において「世界を救う」という大きな言葉を掲げるようになります。

しかしその言葉は、どうしても地に足のつかないもののように響いてしまいます。

本作はそれまで「世界の危機」という問題をほとんど描いてきませんでした。

そのため第47話で突然「世界」が語られても、それが物語の積み重ねから自然に立ち上がったテーマには見えません。

また、「絆」や「つながり」という言葉が強調されながら、実際の関係性の描写は厚いとは言えず、言葉だけが先走っている印象があります。

さらに、人間の少女とアリスピアンの関係には非対称性があり、その問題は本来なら物語の重要なテーマになり得たはずです。

にもかかわらず、それに触れることなく「命の輪」という心地よい言葉で包み隠してしまいました。

こうして振り返ると、本作は「世界」という言葉を掲げながら、その世界の構造や意味を十分に描いてきたとは言い難いように思えます。

その準備が整わないまま「世界の合言葉」という言葉だけが前に出てしまったこと。

それこそが、このスローガンをどこか空虚なものとして響かせてしまっている理由なのではないでしょうか。

物語は「世界を救う」と語りました。

しかしその前に必要だったのは、「この世界とは何なのか」を描くことだったのかもしれません。

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